万有引力 ジャパンフェスティバル リア王 (1991)
10月17日~11月13日 ジャパンフェスティバル公演
リア王
会場 イギリス各地
↓↓演劇実験室◎万有引力新聞【6】1992年1月20日発行より↓↓
演劇実験室◎万有引力が、三度目の海外公演!!ジャバン・フェスティバル’91 英国公演の為に海を渡った 万有引力「リア王」は、ロンドン・タイムスをはじめ、各紙に絶賛された!!
○ザ・ガーディアン紙(ロンドン)1991.10.16
暴力的超スペクタクル ジャパンフェスティバルは驚きの連続である。美しい歌舞伎ハムレットの次は、マーメイドシアターで上演中の 劇団万有引力による暴力的で既成の概念を打ち破ったリア王である。寺山修司の後期の弟子、J・A・シーザー演出 の休憩無しの一五〇分間は、言わばシェイクスピアのストーリーを言葉、歌、踊り、マイム、ロック、 悪魔的肉体表現を通して伝えるものである。不思議なことに私は黒沢の「乱」よりもむしろ Aribert Reimannのオペラ版リア王を思い出した。シーザーの作品はうわべはまるでオペラのように 明白かつ絶対的な善悪感の世界に私たちを誘う。高田恵篤演じるリア王はロープを巻きつけた様な衣装をまとい、 年老いた専制君主として舞台に登場し、家臣たちは彼の前にただひたすら平伏する。ピーター・ブルック以降の多くの 作品に対してこの作品ではゴネリルとリーガンは一泊泊めてもらうのは遠慮したくなるような恐ろしい姉妹として スタイライズされたメークアップで登場する。そしてコーディリアの美徳は彼女の内面を表現する心和むオペラ風の 挿入部によって印象付けられる。私は、蜷川の「マクベス」を見た時のようなその芝居に対する見方の転換は 体験しなかった。しかし色々の要素を取り入れた舞台作りの表現力には賞賛を送らなければならない。 日本語が分からないのでシェイクスピアの台本がどれだけ残っているのかは分からないが、卵の二つの殻を使った 道化のジョークが残っているのには気がついた。しかし、シーザーの物はシーザーの物である。彼の仕事、 それは本当に素晴らしい。混乱の宇宙のカオスを呼び起こす。舞台は傾き壊れたストーン・アーチに全体を支配 されている。嵐のシーンは強烈に感覚に訴えかけるものである。暗黒の中に閃光が走り、それがいっそう暗黒を 強調している。後頭部に偽りの顔をつけている道化はこの光を「歩く光」と呼ぶ。劇場は音で埋めつくされ、 観客は暴力的破壊的スペクタクルの中に飲み込まれたようになる。最後のシーンでコーディリアと道化が踊りながら 去る場面はMorecambeand Wiseショーの最後に似て、センチメンタルで印象深かった。 しかしリア王の狂乱はそのままに演じられる。観客が劇場を出る時にはシェイクスピアの伝説が、 文化の壁を超越したものであることを再認識することであろう。 Michael Billington
ザ・タイムス紙(ロンドン) 1991年10月24日
大規模奇襲作戦 悲劇。もし、日本語で上演されていることを理由に芝居好きの人達が、ジャパンフェスティバル・シェイクスピア シリーズ中盤の演目としてブラックフライヤーで上演中の「リア王」を観に行かないとしたら、それは二重に 悲劇的である。 このフェスティバルの中で、これ程大胆で美しく心引きつけられるものは無いだろう。 それはミュージカルであり、バレーであり、マイムであり、叙事詩でもある。 特に重要なことは、 この劇団「万有引力」の演出家が作曲家でもあることである。J・A・シーザーは、”闇のオペラ歌手”を通して 音楽的に意図を伝える。彼女は囀るように歌い、その音楽はプッチーニの様では無いが、ロイド・ウエーバーより 上を行くものである。録音された音楽とライヴのパーカッションが、不吉な低音の連続からロックのマイナーキーの 連打まで絶え間の無いサウンド・トラックを支えている。 また、この作品は視覚的に魅力的である。 小竹信節のセットは傾いた橋、あるいは金メッキの縁飾りのまだ残る壊れた舞台額縁の横木が全体を支配している。 ワイヤーによる彫刻で巨大な蝸牛の殻を形作り、嵐のシーンでは移動式の家になる。また、月が血の赤に 染まりながら、沈みまた昇る。オープニングのシーンは、自然界の疾風の中に私たちをたたき込む奇襲である。 バレーダンサー風の人物でいっぱいの静かなステージが突然の轟音に乱され、照明が赤や緑に変わる中、 映画のジャンプカットの様に人物が身悶えし、舞い、自身を床の上に投げ打つ。劇団には若い劇団員がいて、 私が感じた限りでは、彼らのセリフは、東京版のNeasdent wang(イギリス北部の鼻にかかったなまり) のようである。それはRSC(ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー)の出来の悪い日に似ている。しかし、 視覚的に彼らは素晴らしい。演劇の伝統と、優美な肉体の多様表現を融合させている。 ショーは、エドマンドと ゴネリルの魅惑的なパ・ド・ドゥによってバレーへと移り変わる。オズワルドはおどけ者ぶりとアクロバットが 入り交じり、輝く程に目につく存在であり、ケントと共に荒っぽいドタバタの喧嘩を演じる。これにはとんぼ返りや バック転も含まれており、それが後にエドガーと演じる死に至るもっと残酷な戦いの中で再現される。 エドマンドとエドガーの戦いが一回目の偽りのエンディングとして舞台を凍りつかせる。そして二人が互いの 体に剣を突き通すに至ってもう一つの偽りのエンディングを迎える。コーディリアの幽霊と道化が霧の中で踊りながら 去ってゆき、明かりの灯った扉を閉め、後には暗い舞台が残る。 どれ程シェイクスピアのリア王が残っているのか、 私には分からない。この作品は、スペクタクル、音、動きに於いて独自の価値を付け加えている。 これは普通の劇場で演じるより、大規模なミュージカルやオペラの劇場で演じる方がその価値を生かせるものである。 高田恵篤(リア王) 福士恵二(道化)そして特に咆哮し踊るセクシーなエドマンド、水岡彰宏が傑出している。 しかし観客の喝釆が物語るように、これは劇団全体の成功である。彼らは次に「レ・ミゼラブル」に挑むべきで あろう。 Martin Hoyly
ストラットフォード・アポン・エイボン・ヘラルド紙 1991年11月15日
ロカビリー・シェイクスピア
■日本の劇団「万有引力」によるとびきり現代的な「リア王」について■
全国的な規模で行われているジャパンフェスティバルのストラッドフォード開催分のメインは、劇団「万有引力」の 「リア王」であるといっても過言ではない。チラシによれば、この芝居は“現代版”とあり、観客は所謂東洋的な 静けさや特異性を期待すべきではないという。確かに演出家J・A・シーザーは、マイム、音楽、造形、様式、色彩に 於いて期待通りの技術を見せてくれた。しかし、この夜の芝居は、折衷的な面白さの驚くべき体験の一夜となった。 ジ・アザー・プレイスで使用されたセットは最近のトレーバー・ナンの作品「the Hamburg Vienna」 を彷彿させるものであった。小竹信節によるめちゃくちゃな構造の階段や回廊、壊れた額縁の残酷に置かれた橋は、 やがて訪れるビジョンの崩壊を暗示していた。
■《ミステリアス》■
家族の愛と憎悪という対を成すシェイクスピアの台詞は、J・A・シーザーはミステリアスなエピソードと連鎖性を 付け加えた。例えばオープニングの「愚者の祭り、あるいは影の浄化の祭典」または「月蝕の夜の機械」 「形而下棒の噂」である。それらのシーンは、全体に渡ってテーマと雰囲気を盛り上げる音楽・マイム・ダンスの 前触れとなっている。また、おそらくシェイクスピアの台本のかわりとしてこうした表現が用いられているのであろう。 音楽は日本の宮廷音楽にVaughan Williamsとスパニッシュギターの中間のようなものを ミックスした哀しげな調べから、爆発的なロックへと急激に変化する。その激しさは、観客がこの新しい劇場が しっかり建てられていることに感謝する程である。さらに特徴的なのは、穂積磨矢子によるオペラ風の音楽が、 ト書きや台詞にとってかわっていることである。
■《照明》■
丸山邦彦によるライティングの素晴らしい光彩とコントラストは、即座に我々の目に焼き付けられる。 赤と紫の柱が演技エリアを彩成し、円盤のような月が絵画のようにシルエットを浮かび上がらせる。その間に緑や 青や赤が舞台装置の細部を照らしだす。影像は目にも止まらぬ明かりの変化で、現れかつ消える。 高田恵篤が演じる リア王は、哀感ととまどいの中にあって力強い。彼はロープや糸を美しくコラージュして身につけている。 その姿は痛みと無理解のもつれた結び目の体現である。 篠井世津子の鋼鉄のようなゴネリルは、矢口桃の演じる 残酷ではあるがソフトなリーガンと、鮮やかなコントラストを成している。松丸純子は、コーディリアを傷つきやすい が堕落に屈しない憐れみと同情の女性として演じている。 ゲームのセットをいっぱい身につけた福士恵二の演じる 道化は、この芝居の前半に於いて支配的な人物である。彼は自分の意見をバラードで歌って素晴らしい効果を引き出し 、生卵を飲み込むフォルスタッフのトリックで観客をびっくりさせる。
■《コミック》■
しかし、中山信弘の演じる妖精のようなオズワルドは、この作品中、コミカルな部分で特に素晴らしい。 また彼は英国の作品に見られるより以上に、彼の女主人ゴネリルとの微妙な関係を示そうとしている。訳者、 坪内逍遙が我々の言語から発して彼自身の作品を作ったとは言うものの、シェークスピアのエピソードのオリジナル の趣が、足かせ台のケント・リア王の狂気・グロスターの失明・コーディリアの死体を抱きしめるリア王などの部分で 、いかに分かりやすい形で残っているかを見いだしたのは驚きであった。罪深い姉妹の脅威であるサルバドール・タリ の演じるコーンウォールと水岡彰宏のエドマンドの邪悪さは、激しいロックと共にどんどん追ってくる。狂気の嵐の 心中は、バレー的なマイムで表現され、この中で風速12はあろうかと思われる風の音が だんだん大きくなる。そしてStev Pimlottのジュリアス・シーザーが夏のそよ風に思える程の大騒ぎが 展開される。舞台は本当に揺り動かされ、やがて音は魔法のようにオペラ風のアリアと溶け合っていく。リア王の 狂気への凋落と共に。 実際のところ、英国人の観客は偉大な詩を聞き逃さざるを得ない。しかし、彼らの目や耳が、 J・A・シーザーが「万有引力」によって描きだす恐ろしい程の舞台効果に 包み込まれてしまっている限り、そんなことに思いを及ぼす必要はない。
■《エネルギー》■
エネルギーと発明は一瞬も澱むことは無い。 海津義孝演じる気違いトムは、自ら課した重荷である鋼鉄の コイルを担う。道化の引くカートは、11月5日の爆竹のように立ち去る。リーガンとエドマンドは、情熱の象微である 網の下、赤い舞台で身悶え踊る。このストーリーの最後では、照明のプールを次々と目で追うことになる。 クレイジーマシーンのピンボールのように突然舞台の深みからイメージが引き出される。 その間音楽は、人物達をロックのクライマックスへと誘ってゆき、 そこには一見、悪の勝利が訪れる。 しかし、リア王とコーディリアはこの気分を越えて我々を深く悲しみの 感情へ誘い込む。 最後のピンク・フロイド的音楽は、この芝居の哀しい結末を悔やむものである。先週金曜日の 2時間半、J・A・シーザーと彼の役者達は我々にバース(韻を踏んだ台詞)を忘れさせ、悲劇の復活を体験させ てくれた。役者達の技術は息を飲むほど恐るべきものであり、イギリスでカーテンコールと呼ぶ部分でさえ、 この劇団は縦横無尽の跳躍や宙返りの連続で、魅せてくれた。トータルな確立された手法は、最後まで維持されたので ある。 衝撃に打ちのめされた観客達にとって、帰路の水辺は本当に静かに感じられた。
ザ・バーミンガム・ポスト紙 1991年12月1日
残酷さに焦点をあてた文化のクロスオーバー 東京グローブ座のリア王は、シェイクスピア演劇の世界を歌舞伎の手法によって拡げた、注目すべき例である。 はっきり言えることは、役者達が終始日本語で演じているにもかかわらず、それらによって何ら損なわれる物は 無いことである。このひどく喉音の多い言語によって語られる全てが、全体としての意味を成している。 それは、この芝居の構造が完璧だからである。 階段、頭上を渡る跨線橋、おぼろげな舞台前方部。 ジ・アザー・プーレイスは深紅のコックピットと化した。黒い集団がドラマチックなファンファーレと共にロープを 脱ぎ捨てると、暗闇の中から竜女が姿を現す。冷たい目をしていて、その絹のような黒髪に金の飾りをつけている その女は、リア王の娘である。その姿は、歌舞伎の竜女を見るようであった。 リア王を熱演するのは、素晴らしい 演劇センスを持った高田恵篤である。ロープを編んだローブをまとい、喉に血管の浮き出たすごいメークをした 高田氏は、この難しい役を見事にこなした。 儀礼的なものが、ロックや伝統的な日本音楽の中に組み込まれ、 シェークスピアの残酷さと狂気の宇宙は、文化のクロスオーバーの中で素晴らしく息づいていた。 それは、想像力の勝利である。 マイム・オペラ・ダンス・メークアップテクニックが多彩に盛り込まれ、 見る者を絶え間の無いスペクタクルに引き込む。十数人の役者が、リア王の馬たちの足並みを表現し、 嵐の場面の始まりでリア王は空中高くにいる。月蝕がエドマンドの出生を強調し、白い顔や体が闇の中で 金切り声をあげたり囁いたりする。そうしたシーンが、ドラマに不気味さの対比律を奏でる。 様々な舞台美術を駆使したこうした作品から学ぶことは非常に多い。
ウェスタン・メイル紙 1991年11月1日
東洋の戦う武将たちのファンタジー・ワールド 日本語による前衛的なリア王は、エンターティメントというよりはもっと激しい疲れるものであった。しかし、 だからといってこのエキサイティングで美しいショーを見に行かない手は無い。この芝居は東京グローブ座から ジャパンフェスティバルに参加したもののひとつで、英国ではロンドンとストラットフォードの他にはカーディフ だけで上演される。リア王のストーリーは、中世と宇宙時代との間をタイムワープする東洋の武将たちのファンタジー ワールドに驚くほどフィットする。中でもとりわけ変わっているのは小竹信節の風変わりな舞台装置。そして エドマンドの邪悪なシルエットが血に染まった月の中に浮かび上がる鮮明なイメージである。役者達は仮面の様な メイクで超現実的な衣裳をまとい、頭には干からびた頭部や切り離された手を付けている。リア王は典型的なタイプ の老人で、ロープで出来た巣のような衣裳をつけている。それはおそらく彼の致命的な誤った判断が悲劇的な結末へと 「つながっていく」ということに関係があるのだろう。 リーガン(訳者注・ゴネリルの間違いと思われる) は毒々しい緑色の爪と滝のように流れる魔女のような黒髪を持った邪悪な夜の女王である。この芝居に登場する 女性達は大変魅力的である。しかし歌舞伎の伝統に従って彼女たちの殆どが実は男性であるということはとても ショッキングである。 台詞は日本語であるがストーリーは程よく原作に忠実に展開されていく。しかし、 いずれにしてもこの全てを包括した舞台にあっては、言葉はひとつの要素にすぎない。伝統的なスタイライズされた 動き、暴力的なアクロバット、騒々しいコメディ、剣による闘い、それらが全て交じり合いながら発展する。 ドラマは速いテンポで進み、休憩無しの二時間半、観客を退屈させない。 日本の伝統的な音楽とロックが ライブパーカッションと一緒になって絶え間のないサウンド・トラックを作り出し、観客は音に包囲されてしまう。 この音であなたがかつて体験したことの無い様なドラマチックな嵐のシーンを作りだすのである。 情け容赦の無いドラマと音が完全に観客を圧倒する。-この作品はセント・スィーブンス・シアターよりも もっと大きい劇場用に作られたものだと思われる。会話の中で感情の機微を表す伝統的な舞台作りアプローチも 良いものである-嵐は穏やかさとのコントラストにおいてより激しく感じられるものである。いずれにしても、 もしあなたが何かパワフルで独創的スペクタクルをお探しならば、それはこの舞台である。