万有引力 第16回公演 奴婢訓 (1990)

 カテゴリ: 天井桟敷・万有引力

万有引力 第16回公演 奴婢訓 (1990)

1990年9月21日~ 第16回公演
奴婢訓

会場
 海外公演イギリス、ドイツ、デンマーク
フランクフルト・アルゲマイネ紙(フランクフルト)
驚異のゴルゴダへの道(十字架のステイション)
-ブロトファブリック劇場に東京グローブ座が寺山修司の作品をもって来た-
男と女がゆっくりと様式化された動きで舞台の床や階段を掃除している。  体と棒がひとつにつながっている。後の場面に出てくる、音がしても見えない少年のネジ(それを女中が回すと、少年は自動人形のように動き出す)と同様に、水もなにもないのに仕事は果たされている。日本から来た東京グローブ座の芝居は、火と照明、人工的と動物的な動きが入り交じって、観客を仰天させ興奮させる。  この劇団はブロトファブリック(パン工場跡)で上演中だが、その劇場空間をとてもうまく活用している。作品は、寺山修司の「奴婢訓」でジョナサン・スウィフトの風刺?に想を得ている。  一九八三年に寺山氏が死んだ時は、日本の前衛劇団としてよりも、国際的な劇団として認められており、一九七二年のオリンピック芸術祭には、「走れメロス」がドイツに招待された。  昔から寺山と共同作業をしていたJ・A・シーザーが今その演出をしているが、舞台音楽を通じて、より演出効果をあげている。 音楽と同様にこの芝居の影の演出家は、小竹信節デザインによる機械(冷ややかな身震いを起こさせる機械)やセット、小道具類である。これらが観客を芝居の世界に引きずり込み、観客もまた劇中で主人と奴隷の交代を強いられる。無ゆえの力がそこには存在する。この芝居は、表現力豊かなダンサーのように訓練された俳優達によって支えられ、ニュアンス豊かな音楽と際立ったディテールによって息つく暇も無く一六階段の極楽浄土への度を観客に体験させる。  とてもシンプルだが、演劇にしか使うことのできない媒体は観客を脅かすこと無く納得させた。 例えば、暗転の中のマッチの炎、におい、身体接近、それから三つめのシーンで役者がいかにも物ほしそうな顔をして骨を追いかける犬に自分をおとしめた時には、恐怖を感じた。  かつてのソフォクレス演劇曰く「人間ほど不気味なものはない」。この現代日本演劇は、かつてのこの古い発見を今新しく生き返らせた。
ビクトリア・カイザー
エキストラ・ブルデット紙(コペンハーゲン)
残酷な道化者たち
万有引力の芝居は、まったく猛烈な芝居だった。見ていない人は、KANON HALLENでもう一晩チャンスがあるので、見に行くべきだ。見た人には忘れられないものとなるだろう。この芝居は、寺山修司によってアイルランド人の風刺作家J・スウィフトの召使についてのエッセイをもとに書かれた。芝居は、主人のいない屋敷で約二十人のアクロバット的な役者が召使の役を演じているもので、そこで召使たちは、交代で主人の役を演じる。この劇の風刺のポイントは昔から事実、つまり猫がいねいとねずみがテーブルの上で遊ぶということだ。この作人の中は、ねずみはみにくい野獣であり、暴力を通じて権力争いを展開する。それはコミカルであり、また残酷である。ジャン・ジュネの残酷な〃roll theater〃(役割の演劇、ごっこ遊びの芝居)に似ているが、対象に距離をおいていること、芝居の中に歌があることから、肉体を通じて観客に容赦なく押し付ける美と暴力との永遠のコントラストはまず第一に日本的だ。これは血の滴るような迫力のある大衆劇だ。一九九〇年一〇月一七日
フランクフルト・ランドショー紙(フランクフルト)
マッチ一本による革命-東京グローブ座による日本の演劇-
頭に白い包帯を巻いた半裸の男が激しく動きまわる。 ゴットフリードヘルヌバァイン(オーストラリアの画家)の絵のように、彼らには顔がないのだ。攻撃的な音楽と共に女が包帯の先を噛み、くわえると、男たちは操り人形のように彼女に操られる。それは最早人間ではなく、全能の力によって苦しみも喜びも手中におさめられた物と化す。 これらの行為は、猿ぐつわをはめられた?の様で、J・A・シーザー演出、東京グローブ座公演の中でとても印象的なシーンであった。この劇は、「奴婢訓」と題され、一九八三年に亡くなった寺山修司の作品で、ジョナサン・スウィフトの風刺作品から自由に翻案されたものである。 しかし、この「奴婢訓」というタイトルには二つの意味が隠されている。  この日本人による劇団は、人間の抑圧を見せると同時に、その鎖を断ち切る為のアドバイスもくれる。プログラムを読むと「革命するには思想はいらぬ、マッチ一本あればよい。」とある。  公演は日本語だけだが、日本語が分からなくても充分理解できる。不思議な金属の機械で拷問されるシーンには、苦痛とエクスタシーの身振いとが同居している。服従は内面化され肉と血に根をおろす。支配する側もされる側もそのプロセスを壊すことはできない。  出てくる奴婢たちは奇形で、その折れ曲がった体にさらに脱臼や擦り傷を負うかのようにころげまわる。 普通に歩くことが出来るのは、クライマックスの後のシーンだけである。  そのクライマックスのシーンは、ピーター・グリナウェイの映画が思い出される贅沢な晩餐が行われるが、そのシステムはマッチ一本の放火によって解体される。  この日本人による劇団の芝居は、数多い同時進行のアクションやストップモーションの絵画的で華麗な印象で劇全体を満たす。 照明は少ない数だが、ぞっとさせられるし、音楽は観客を熱くさせる。  この芝居の初演は一九七九年だが、見ていると七〇年代と八〇年代前半の演劇理論を思い出させることが多い。しかしブロトファブリック劇場での公演(ドイツ初演)は、時代を超越した地球上での解放運動についての魅惑的な比喩であった。
ティエルク・フーリグ
ザ・タイムス(ロンドン)
スウィフトの召使いたち 主人たち
こんな光景をジョナサン・スウィフトが目にしたなら何と言っただろう?坊主頭の半裸の日本人が舞台で叫び声をあげたり、枠組から飛び出したり、馬鹿でかい入れ歯で噛みかかり合ったり、バンガローのような大きさの靴を引きずりまわしたりするのを見たら?  スウィフトはラプタ島というナショナル・シアターで、科学者にはキュウリから太陽光線を抽出する研究をさせ、建築家には屋根から下に向かって家を作らせて悦に入っていたはずだ。これが、自分で書いた「奴婢訓」の上演だと聞かされたなら、バリバーのためにもっともっと奇妙な国を創りだせるようなインスピレーションを得ていたに違いない。  もとになった作品は、保守的なスウィフト流アイロニーに満ちた召使い頭や従僕、馬番や女中などに向けた指南集である。料理人は煤をスープに混ぜ込むべし、女中は女主人の溢んばかりになった室内便器を持って堂々と歩き回るべし。使用人たちの娯楽室なんて大体がばかみたいとりすましていて嘘で塗り固められている然るべきものだ。もっとも、わたしの見た限りでは寺山修司のスクリプトもJ・A・シーザーの演出もスウィフトの指南になど従っていない。東京グローブ座の俳優たちがお手本にしているとしたらそれは明らかにジュネと、彼が家庭内のめちゃくちゃな無秩序を痛快に描いてみせた作品、「女中たち」であろう。 そのことは舞台のしょっぱなから印象づけられる。裸の坊主頭の男が登場し、貧弱な電気椅子のようなものに座る。その横にはエメットのデザインによる歯医者のドリルのような器械。入れ歯がはめ込まれブーンという音がする。頭には弁護士用のカツラ、鼻の下には立派な口ひげが付けられる。次ぎに人間の手が伸びてきて肩ぱっとをのせ、ただの男が主権者に変身させられたのだ。だが、結局、暴徒と化した使用人たちによって引きずり降ろされ再び裸に戻る。使用人たちが主人の持っていた権力を奪い取り、残りの舞台はずっとその権力をめぐってのサド・マゾめいたゲームとなる。 それらのゲームは印象的な視覚効果を持ち、それほど触りにくいわけでもない。(中略)最初に彼は、「最後の晩餐」よろしく主人のテーブルを囲んで集まる。すると家全体はイラク軍に侵攻されたクエェート市内のようになってしまう。 寺山とシーザーの作品には独りよがりで回りくどい箇所もあるが、主題は明確だ。階層制や奴隷なんてくそくらえ。ブーツはピカピカに、食事は時間どおりと命じてたスウィフトはきっとギョッとしていることだろう。
ベナディクト・ナイチンゲール
ザ・インディペンデント紙(ロンドン)
召使い頭が成したこと
ジョナサン・スウィフトの「奴婢訓」は引退した従僕と考えられる〃語り手〃に、スウィフト本人は絶対に許さなかったであろう行為を実践を奨励させるというえせ手引書だ。「食卓の上に出すお皿の底を拭ったりして布巾を汚すのは最低である。食事のたび取り替えるテーブルクロスに任せておけばいいのだ」と、料理人は教えられる。 この手の淡々とした皮肉な調子で、家庭はこっそりと念入りに無秩序へと導かれていく。 (中略)リバーサイドで上演中の寺山修司の舞台は、スウィフトの風刺的作品に題を得、それを下敷きにしていると言われている。坊主頭で半裸の奇妙なメーキャップをした男たち一団が、同じく不思議な女たち一団と共に使用人を演じるその様は、確かに、ガリバー旅行記のヤフーのようでぼんやりとした結び付きをにおわせてはいる。しかし、スウィフトの作品では明らかに主人が存在していたのに、寺山の現実離れしたファンタジーでは出だしから誰が主人かが問題となる。それは、素っ裸で丸坊主の無表情な男が王座に座り、ヒース・ロビンソンの複雑な装置がカツラと口髭と聖主人のガウンを男に着せかけるところから始まる。権力の象徴の金の靴を要求し、この滑稽な格好をした男は使用人たちに倒される。 騒々しい派手な出来事から次から次へと起こる中で、舞台は初めて?んだ自由の意味を求めて展開していく。 屋敷ではエネルギッシュで凶暴な主人交替ゲームが繰り広げられる(中略)例えば、テープレコーダーに録音された声が、 自分の主人であることを主張し、前主権者にズボンを脱いで、手の込んだ装置に登るよう命ずる場面がある。網を繰り返し引っ張ると、滑車装置が二枚の金属の板を作動させてえじきのあらわな背中をひっぱたき、ひっぱたかれている本人は、その間中悪いのは自分だと後悔の念を込めてつぶやき続ける。主人交代マシンは、同じように人を辱しめるという怪しげな目的を持ているものの、もう少ししゃれた装置だ。二人の男がテーブルに向かい合って座るのだが、予測できないマシンの回転によって、胸を張ったり、屈辱的な頭を垂れたりという主従関係がひっくり返っていく。 演出家J・A・シーザーによる、東洋音楽とロックとクラシックをミックスさせたビートの効いた音楽と、刺激的なイメージ-浮かび上がる包帯の川、主人となったダリア(瀬間千恵)とその他の偽主人たちがスモークの立ち込める中を退いていくグロテスクな最後の晩餐-などによって「奴婢訓」が、見るものの感覚に真正面から攻撃をしかけるのは確かだ。権力の本質について何か難解な言及をしているのかどうかという点に関してはもっと様々な議論があるだろう。スウィフトが書いたのは、主人顕在で、ある程度の規則も守られる中で、どうすれば家庭内に無秩序を生みだすことができるのかということだった。寺山の作品はもっとストレートな突っ込み方をしているようだ。無秩序は主人の不在によって生まれる。それでも、このそう病的で現実離れした役者たちが表現したのは「使用人問題」への新たな取り組み方なのだ。
ポール・テイラー
奴婢訓欧州ツアー顛末
私の好きな「お元気ですかぁ?」の井上陽水にリバーサイドホテルという唄がある。♪ホテルはリバーサイ、懐かしリバーサイ…そしてこちらは文字通りロンドンはテムズ河の辺、♪ゲキジョーはリバーサイ、麗しリバーサイ…あの懐かしのリバーサイド劇場に十三年振りに立った。当時の我等の過激なシンパ、ティレクターのデビッドはしかしもういない。革新的だが温かい男で寺山に心酔し上司のプロデュースと対立した後、リバーサイド劇場と喧嘩別れしたらしい。そういえば当時ここで奴婢訓を演ったメンバーが今回七人揃った。演出のシーザー、音響の森崎、美術の小竹、役者のタリ、桃、私、そして総演出寺山。 劇評は予定通り概ね好評で各紙共どうひねって書くかを競っているようでもあった。しかし私最も喜ばせたのは劇場と袂を分かって十年余、一度もリバーサイド界隈に足を踏み入れたことがなかったというあのデビッドが満面に笑みをため客席にいたことであった。奴婢訓は彼の人生のポリシーを二度までも変えたのか…百数十回を超える舞台だが久々に燃え立つ血を抑えることが出来なかった。 その後西独、デンマークと回ったがいずれも好評で(この頃新聞で「○×劇団海外で好評!」などという記事をよく見るが現地で見てない者には全くの眉唾モノということがよくある。しかし今回は… ま、信じてもらうしかあるまい。いや別に信じてもらわなくてもいいのだが〈どっちなの〉)特筆すべきはデンマーク。物価が高いのが玉にキズだったが、(東京が世界一というのは嘘である東京の一.五倍は高い)在独の元劇団員の情報によると演劇人口は少ないが国民には前衛的なものを受け入れる土壌は多分にあるとの事。彼の言葉はまさに正しく、客席の息遣いで彼らが劇に飢えているのが手に取るようにビンビン感じられる。欧州ツアー高の締括りであった。ま、私個人としては帰国前の最後の休日、人魚姫の傍らで一人、田村正和になったり、救世主教会という高さ百数十メートルはあろうかという尖塔のむき出しラセン階段でヒッチコックの「めまい」を味わったりと…とにもかくにもあの興奮と熱き心を再び凱旋公演に持ち込みたいものである。
根本豊