万有引力 映像遊劇シリーズ「架空庭園の犯罪」パート2 映像遊劇 βマリアの印象 (1987)
1987年3月20日(金)~3月22日(日) 映像遊劇シリーズ・「架空庭園の犯罪」パートII
映像遊劇◎βマリアの印象
会場
池袋スタジオ200
料金
会費2000円 前売り・予約・当日精算2000円
映像・作・演出・音楽・美術
J・A・シーザー
共同映像・演出
根本豊
音楽弁士
溝入敬三 溝入由美子
音響弁士
落合敏行
照明弁士
永地イケヤ
写真
楠野裕司
宣伝美術
三枝泰之
制作
スタジオ200 スーパー・スタッフ・カンパニー
演技弁士
理髪家タップリン◎サルバドール・タリ
「マリア、生まれながらの役割で生きつづけることの方が、もっと辛いことかも知れない。」
怪人キネマネキ博士◎根本豊
「フフフ、どうやら完全なる死体を手に入れたようだ、ハハハハハ…」
特選弁士の江戸川雪洲◎水岡彰宏
「いつしかマリアは実人生においても、すべて映画の筋書きどうりに生きるようになるのであった。」
赤い発明王・エディスン◎中村亮
「これが、《覗き式キネトスコープ》だ、感光乳剤を塗ったセルロイド版、フィルムだよ。」
音入れ屋のトーキー◎海津義孝
「静かに!笑うんならスタジオから出て行け!それでは映写スタートして下さい!」
栗原トーマス◎須崎晃
小谷ヘンリー◎中山信弘
5.バーバー・ピーナッツ
出演
サルバドール・タリ 中村亮 海津義孝 須崎晃 ナカタケイコ
理髪家ポロ氏は、理髪中に、鏡に映る自分の仕事風景を見ながら、退屈、憂うつきわまりない。その単純作業の中で 強いられる、ある種の想像世界が、いつか見た映画空間映像現象(スクリーンに発展される映像が、ドラマと同時に、 彼の体内空間にもう一つの映像として逆さ映りする、シュミレーション感覚)を引き起こす。ー「すべてが不在… すべてなにもない。だから、私は、何かになろうと、百万人の眼(目撃者)のアリバイ工作の為に、俳優になった。 バーバー・ピーナッツ!わたしの……。」
6.100フィート・ランナー
出演
海津義孝 袴田貴子
「止して語るな!人間ってのはな、走りながら喋るのが一番、聞きやすい!解りやすい!浮気も、子無しも、給料も、 愛も、走りながら語り合うのが一番なんだよ!女房!」と、本当の会話とは?本当の幸福とは? を見つけだそうとする、肉屋夫婦の100フィートの幸福論!!
7.モーリシャス天気予報
出演
高田恵篤 松丸純子
数えきれない程の「人間の言葉が集まる郵便局」が、もし…。ある日、一人の少女ジュルが、マダガスカルの田舎郵便局へ 手紙を持って行く。海の向こうの恋人アルキムへの手紙である。が、局長のマンタは、ジュルに一目惚れ、大事な手紙を 捨ててしまう。いつまでも待っても手紙は届かない。世界の珍品、」モーリシャス切手から思いついた、 ちょっと変わった悲恋物語である。書簡犯罪は、必ずしも不幸になるとは限らない。何故なら、 出会うことのないであろう人間同士が、一人の男の手によって簡単に出会えることが出来るからだ。それは映画の 編集作業にも似ている。あるシーンのフィルムを屑フィルムにすることが―――。まるで天気予報のように……。
8.赤い発明王
出演
中村亮 他
赤い発明家と呼ばれる支那の衣装をまとった男フンザがいる。彼はなぜか文字が書けない。彼の文字は、発明される 自動人形そのものといってもいいだろう。それは、「また失敗だ!」「どうして最初の人間は何でも食っちゃうん でチョ!」と、彼が喋るたびに発明されるからだ。一言で一体の自動人形。――ある日彼は、自分が何故文字が 書けないかを知ってしまう。「私はフンザ。私の肉体には名前がなかった。でも私は今、その名を知ることができた その肉体の名は……」
9.嘘つきトーキー
出演
海津義孝 ナカタケイコ 他
あらゆる音を同時に創り出す、職業「音入れ屋」のトーキー氏が、舞台上でくりひろげる抱腹絶倒の珍声、珍音、 珍作業、珍台詞に珍音楽!珍々々々々
10.イギリス女中は夢が好き
出演
中山信弘 須崎晃 袴田貴子
二人の女中が子供を産んだ。が、よりによって木でできた人形子供。一人の女中の夫ポロクロは、タバコばかり吸い、 もう一人の女中の夫は奇妙な宗教舞踏と勉学ばかりで、一向に子供の面倒を見ようとしない。木でできた人形だから? 男という生物だから?
―「B・マリア」とは、世界最初の撮影所《キネトグラフィック・シアター》のことで、 その黒い異様な建物を研究所員たちは「ブラック・マリア(囚人護送車)」と呼んでいた。―
“可視の宇宙は、幻影か誤謬である。”-ボルヘス-
映像と肉体と音楽と言語の宇宙誌は、失われた黄金時代の象徴であるアンドロキュヌス性を個の中に呼び戻し、 百頭の魔術師たりうる自己の可能性を表現する! 今回の試みでは、不在を「ある」「ない」で捉えず、「可視」「不可視」の存在として考えたい。可視と不可視、 生成と消滅、それらは、鏡と鏡の間に宙吊りにされた「私」が誰であるかを目撃することになる。つまり、わたしが 「私」を目撃することによって、その存在を知ろうとする「果てしない行為」の叙事詩である。
-J・A・シーザー-